Act.8 革命 夏流との夢の様な一時が終わりを告げた。 「もう、会う事もないだろう…」と豪はふっと笑った。 そう、またそっと見守るだけだ。 彼女の人生がいつも幸せに輝いているのを見守るだけの…。 マンションに戻り、夏流がいた空間を辿る様に部屋の中を歩く。 寝室のドアを開けベットに腰掛けると、夏流のいた名残とも言える微かな薫りが、ベットの上に綺麗に畳まれているブランケットから感じられた。 夏流の柔らかい感触が自分の心を締め付ける。 唇を震わせ仄かに赤く染めた、あの肢体が、食事の時に微笑んだあの優しい笑顔が。 「夏流…」と何度も確かめる様に言葉を零した。 感情に先走りそうになる自分を抑えるが如く、豪は寝室に置いてあるオーディオのスイッチを入れる。 目を瞑り部屋中に流れるピアノの旋律に、心を委ねていた…。 ショパンの「革命」が流れた時、豪はふと、今の自分を顧みた。 「坂下」の後継者として生を受け、坂下の為に生き、そしていつも自分を律して…。 何かを深く望んだ事が無かった。 いや、それは自分自身の変革と言うべき事に目を背けていたからだ…。 最初から自分にとって、あるべき「言葉」では無かった。 幼い頃から密かに育んでいた夢が断たれた時、それが最初から叶うべき望みでは無い事も解っていた。 だから、敢えてそれ以上を望まなかった。 感情に向き合える事が果たして俺にとって、必要であったと言うべきなのだろうか…? 輝が言うべき、「俺」は。 本当の俺は…。 「夏流」 君に出会って俺は、何かを深く望もうとする自分に困惑している。 君が忍と出会った事が運命と言うものならば、俺にとっても君は運命だった…。 俺と言う「個体」に君は命を吹き込んだのだから…。 君に出会って全てを諦めていた俺が、君に対しての想いを永遠に貫こうとしている。 奪うだけが愛ではない。 見守るだけが愛でもない…。 そう、俺はただ君が…。 君が幸せになる事を望んでいる。 そうであったはずだ…。 それが、本来の俺の姿。 各々が総じて言う「坂下豪」の…。 旋律が激しさを増し、豪の心に新たな波紋を呼び起こす。 違う! 本当は俺は君を激しく愛したいんだ。 誰にも渡したく無い! 忍にも…。 愛を語り、君を抱きしめ、俺のモノだと君の全てに刻ませて…! 深く深く、君を愛したい。 「忍、済まない…!」 いつも心に忍の姿が俺の心に翳め、俺の想いにブレーキをかける。 夏流ともう一度出会う為に、己の人生を歩む為に、自分の道を信じて生きている忍が俺の心に深く抉る。 やっと、自己を取り戻し過去を受け入れた時の、忍のあの笑顔が…。 「だが俺も愛しているんだ…! 俺も夏流の事を誰よりも深く…」 望んではいけないのであろうか…? 夏流。 君が欲しいよ…。 いつの間にか音楽が終わり、寝室に豪の微かな嗚咽が響いていた…。 マンションに戻った夏流は、テーブルに荷物を置き深くソファに座り込み、ぼんやりと嵐の様な一日を思い出していた。 初めて行った夜の街、仕事、そして豪との…。 恐怖に駆られた感情が、震えの走る体が思い出させるのは豪の優しさだった。 そしてそれ以上にあの時に見せた目の…、自分を見つめる熱を含んだ、あの深い瞳。 私は…知っている? あの瞳が持つ意味を。 夏流は自分の考えにかぶりを振って否定した。 「解らない…。 ううん、私は。 本当は解りたく無いんだ…。」 それを否定している自分と、そう言葉を紡ぎながらも知りたいと願う自分。 鼓動は高まり自然と胸に寄せた指先が微かに震えている。 「坂下さん…」 自然と言葉が零れた。 もう会う事も無い人。 生きる世界も、何もかもが自分とは違う…。 そう思った途端、締め付けられる様に心が痛みだした。 自分の中で警告音が鳴っている。 激しく示すそれが何かは本当は知っている。 だけど、それを認めたら。 (坂下君…) 今でも私の心に深く刻まれた…。 「だから今だけ。 そう、今だけこの感情が浮かんでいるのは。 また日常に戻り、穏やかに時が経つだけの…」 呟いた言葉にふと、笑みが浮かんだ。 変化を求めない穏やかな日常を…。 そう思った途端、一気に疲れが押し寄せ気が緩み意識が遠のく中、微かに涙を浮かべていた事を夏流は、知らない…。 |