Act.7 予感 その3





走行する車の中で、暫くの間、無言が続いていた。

先程から車内に流れるクラシックの音楽が、落ち着かない夏流の心をどうにか鎮めていた。

豪に手が触れられた時から、自分の心の中を翳める奇妙な感覚。

知りたい様な、なのに知りたく無い様な自分の気持ちの曖昧さに、夏流は歯がゆさを感じていた。
もどかしい自分に嫌気がさした夏流はそっと、豪の方に視線を落とした。

ゆったりと音楽に心を絡めている、そんな表情を窺わせる豪に、夏流も同じ様にピアノの旋律に心を寄せた。

静かに流れるピアノの音が夏流の心にまた、不可思議な感覚を呼び起こす。

甘く、そして切なく…。

心に広がるピアノの軽やかな旋律に夏流はいつの間にか、全てを委ねていた。

何時からだろうか…?

ピアノの音に心を静かに傾けている自分に注がれる視線に気がついたのは。

俯いていた顔を上げると、豪が穏やかな笑みを浮かべて自分を見つめている。

もしかして眠っていたのでは?と夏流は自分の体たらくさを心の中で叱咤し、気恥ずかしさの余り、豪の視線を逸らした。
夏流の気持ちを察したのか、豪はくつくつと笑い出し、夏流に目的地に着いた事を告げた。

車から降りると、そこは色とりどりの花に囲まれた、レンガ作りの、落ち着いた雰囲気を窺わせるカフェであった。

中に入ると、焼きたてのパンの薫りが店内に広がっている。
その薫りに密かにお腹の音が鳴った事に夏流は顔を真っ赤にさせるばかりだ。
一番、光が差し込んでる場所に案内されると、そこには既にセッティングされていた。
前もって豪が連絡していた事に気付いた夏流は、彼の細やかな気遣いに改めて驚かされた。

ふと、テーブルに目を向けると、花瓶にラベンダーが生けられていた。
紫色の花弁を見つめながら、ラベンダーの花言葉は何だったんだろう…?と考えに心が捕われていた。

「どうかした?」と言う豪の問いに夏流は考えに没頭していた事に気付き、曖昧に微笑んだ。
「何でもありません」と一言いい、ウェイトレスが運んでいた食事に目を移した。

三種類の焼きたてのパンに、コーンポタージュスープ、サラダにメインにはハーブが添えられた魚料理が運ばれた。
香ばしいパンの薫りと、ハーブを効かせた魚料理に夏流は夢心地の心境だ。
パンを口に運んだ瞬間、パン独自の甘い食感につい、微笑んでしまった。
「とても美味しいです。」と感想を述べる夏流に、豪が愛おしいそうな視線を落としているの事に
夏流は気付いていない…。

食後にイチゴのシフォンケーキと仄かにオレンジの薫りがする紅茶が運ばれた。
テーカップを手に取り、薫りを堪能するかの様に紅茶を口に含む。

シフォンケーキを口に運ぶ度に「美味しい」と何度も感想を述べる夏流に笑い、豪は「ここは焼き菓子も美味しいから、
食後に買って帰るかい?」と言葉を添える。

甘いお菓子に目がない夏流には豪の言葉はとても魅惑的に聞こえた。

「はい」とにっこりと微笑む夏流に、「だいぶ心が和らいでよかった」と心の中で安堵した。

食事を終え、帰り際に焼き菓子を見て何種類かを購入し、豪は夏流に手渡した。
目の前に差し出されるお菓子に夏流は最初、受け取る事を辞退したが、何度も促す豪に負けてありがたく頂戴した。

2人に流れる穏やかな時間が静かに終わりを告げようとしていた…。

夏流をマンションに送り届けた豪は、車から降りる夏流に一枚のカードを差し出した。
「もし、返済をするのならこのカードに振り込んで欲しい」とそう言葉を切って。

手渡される時に、夏流はまた豪の手に軽く触れた。

どきり、と心が跳ね上がる。

(これを渡されたら返済する迄、もう会う事も無い…)

一瞬心に浮かんだ言葉に、自分が動揺している事に夏流は焦った。

深い瞳で自分を見つめている。

視線を豪に向けると、また、あの深い瞳が自分を捕らえていた。

何故、そんな目で私を見つめるの…?、と何ども言葉が出そうになる自分に驚くばかりだ。

長いとも短いとも言える時間が2人を覆った。

ふと、息を漏らし沈黙を破ったのは豪であった。

「…元気で。」と、そう言葉を言うと豪は踵を返し、車に乗った。

豪の言葉が心の中でずしりと重みを増していく。

「色々と有り難うございました、坂下さん」と言葉を紡ぐ事で精一杯だ。

何故こんなにも悲しいんだろう…?

もう会えない。

彼に逢う事はもう、無い…。

走行する車を見送りながら、夏流は自分の心を締め付ける感情に呆然としていた。



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