Act.22 波紋 その2 「社長、もう、今日は切り上げられたら如何でしょうか?」 俺の身体を労る秘書の言葉を、今日、何度も聞いていたが、流石にこうも言われ続けると逆に仕事に差し支える。 深く息を吐く俺の耳に携帯の音が鳴った。 誰だろうか、と考えながら携帯の画面を見つめ出ると、柔らかいテノールの声が耳に響く。 声の主に、ふと笑みがこぼれる。 急に微笑む俺に、楠木君の表情が緊張が走ったのが窺えた。 彼女の表情を横目で見ながら、俺は会話を始めた。 「今から逢う事が出来ないか。」と言う相手の言葉に、少し考えながらも承諾した。 今の俺には、誰かと過ごす時間すら惜しかったが、状況が違っていた。 あいつには絶対に逢わなければならなかった…。 俺の心情を察してか、携帯越しに軽く笑う声が聴こえる。 相変わらずこいつの洞察力は鋭いな、と心の中で舌打ちしながら、俺は携帯を切った。 予定が入ったので、仕事を切り上げる事を伝えると、楠木君から安堵の溜息が零れる。 その声に余程、心配をかけていた事に俺は、苦笑を漏らす。 「ゆっくり休まれて下さい。」と真剣な趣で言われながら、俺は会社を後にした。 向った先は「一光」であった。 輝は今、商談で海外にいる事を踏まえて「一光」を指定する当たり、あいつの心配りにはいつも感心される。 俺たちが逢ったとしても、どういう理由かは問われないだろう。 案内された部屋には既に、先客がいた。 「待っていたよ、豪。」 「済まない、俺の個人的な用件で社長であるお前を遣わせて。」 「謝る事では無いと思うし、増してや我が社の商品を購入してくれた上客に、社長から商品を届ける事が可笑しいかな?」 からかいを含めた声に、一瞬、俺は言葉を濁す。 柔らかい言葉使いに、優しげな風貌。 俺たち六家の中で一番、顔が整っているのはこいつだと俺は思っている。 そして一番、洞察力が優れ、偽る事も出来ないのもこいつだという事も…。 「お前の、そのゆったりとした物腰で、含まれる様に問われるのが一番怖いよ、侑一。」 「別に含んでも無いけど。 ただ、依頼された商品にかなり関心を示した事は許して欲しいかな? 豪。」 「それが含んでいるとは思わないのか?」 「ふふふ。」 「相変わらずお前と会話すると何を暴かれるのかと思うと、内心、ヒヤヒヤする。」 「ああ、だから最近、豪は僕を避けているんだね。 だけど、これだけは避ける事が出来なかった。 今の豪にとって、一番、大切な事なんだろう。」 「…」 「はい、依頼されていた指輪。 二つとも今日仕上がったので、持って来た。」 「…済まない。」 「相手は美樹さんではないね。」 「…」 「豪…。 いつ、忍君に伝えるんだ?」 急な侑一の言葉に俺は今迄に無い程、動揺した。 どうして夏流の存在を知った? こいつが観察力に優れているのは今に始まった事では無い。 だが、今の言葉がどうして出たのかが、俺は不思議でしかなかった。 おれが夏流に想いを寄せているのを知っているのは、只一人。 輝だけだったはずだ。 なのにどうして…。 「何故、そうだと思う…」 振り絞る様に出た言葉に、侑一が苦笑を漏らす。 「3年前、僕は一度、忍君の見舞いに行った事があるんだ。 その時、偶然、お前と彼女との会話している姿を見た。 余りにもお前が自然体で彼女に微笑んで話しているから、僕は見舞いを控えてその場を去った。 邪魔をしたく無かった言うのが、あの時の僕の感想だった。 そして、あの表情を見て直ぐに察したよ。 お前が彼女に恋をしている事を。 いや、違う。 あの時から愛しているんだろう? 豪…」 「…」 「そして、もしお前がこの指輪を贈るのなら、それは彼女しか考えられないと思った。 性格上、お前が他に誰かを愛するとは思わなかったから。 彼女と心を通わせたんだね。」 「お前には何も隠せないな。 そうだよ。 俺たちは愛し合っている。 忍が今でも彼女の事を想っている事を知っても俺は、恋情を抑える事が出来なかった。」 「…誰からも祝福されない想いだとは、知っているんだね。」 「ああ」 「でも、貫きたいと思っている。」 「そうだ」 「僕は…、正直、忍君の事を考えると、豪の行動はフェアではないと思っている。 だけど、恋愛にフェアも何も関係ないと思うのもまた、心情。 僕はね。 豪がとても羨ましいよ。 愛する人と過ごす時を手に入れたんだから。」 「侑一」 「…幸せになって欲しいと心から思っている。 だけど、お前は「坂下」だ。 この意味は解っているのだろう?」 「ああ」 「それでも…、と言うのなら、僕は何も言わない。 それに僕には、言う事も止める事も出来ないし、またしたくも無い。 恋情を抑える事が出来ない事を身を以て知っているから…。」 ふと、笑う侑一の瞳には過去を偲ぶ陰りが浮かんでいた。 「アメジストのアンティークの指輪のサイズを直した職人が、嘆息を漏らしていた。 見事な作品を見れた事に感謝をされたよ。 あの指輪…。 作られた時代を考えると、お前の祖母の形見か。」 「お前の洞察力にはほとほと感心するよ。 そうだよ。 あれは亡き祖母が俺の結婚相手にと、くれた祖母の恋の形見だ。」 「…」 「実らせる事が出来なかった相手から貰った指輪なので、もし、俺が真に結婚する存在が出来たら渡して欲しい、と。」 「美樹さんがその相手にならない事を、知っていたんだね、その方は。」 「…そうだな。」 「で、もう一つが豪自身が望んだ愛のカタチか。」 「そう、さらりと言わないでくれ。」 「ふふふ…。 でも、この石の金額、彼女が知ったらどう思うだろうね。」 「侑一?」 「仕事の邪魔にならないデザインを…、と言うので石の大きさも控えめにしたが、輝きも素材も超一流だ。 普段、付き合う相手から貰うのは、一般的な常識では考えられない程の金額だと思うよ。」 「でも、俺は彼女にその石をはめ込んだ指輪を捧げたかった。 あの澄み切った水色を見た時から、彼女に似合うのはこれしかないと思ったから。」 「流石、音楽を嗜むだけロマンチストだな。 ああ、そういえば、克彦が言っていたよ。 音楽の道に進むのなら是非、スポンサーになるから、何時でも言ってくれと。 それに関しては僕も一口、乗ろうと思っている。」 「侑一?」 「ふふふ…」 「お前は本当に食えない男だよ。」 深く息を吐き、俺はやっと笑う事が出来た。 「坂下豪」としてではない、俺で。 その気持ちが伝わったんだろう。 侑一もまた、「更科侑一」としてではなく、幼なじみであり親友の「顔」で、俺に微笑んだ。 「世話になった、侑一。 有り難う…。」 「豪。 僕も久々にこんな風に話せて、嬉しかったよ。」 侑一と食事を終えた後、俺はマンションにてゆっくりと、手に入れた指輪を見つめていた。 自然と零れる笑みを抑える事が出来ない。 「これを受け取った君の顔を見るのがとても楽しみだよ、夏流…」 変わろうとする俺の運命は最後に、何を伝えるんだろうか…? ふと、俺は侑一が言わんとした言葉の意味を考える。 「坂下」が何を物語っているかを。 そして、忍との再会が近づいている事を。 忍との再会に考えが捕われていた俺は、その時、既に夏流の身にその現実が起きていた事にまだ、気付いていなかった…。 |