Act.8 戸惑う心
「ああ、今日の夕方、とうとう、あの坂下忍とデートなんだ… 違う違う、デートではなくて、食事会。 そうよ、「ただ」の食事会! 駄目駄目、夏流! そんな言葉は、あの男との関係には存在しないの! でも…、なんて憂鬱なの。 な、泣きたい」 結局、夏流はあの後、忍に自宅迄送られた。 下校時に集まる視線を強く感じながら夏流は、これから日常茶飯事に行われる女生徒達のいじめに どう対抗して行けばいいのか、頭の中をフル回転させた。 させたって、どうこう出来る事では無いと心の中で思いつつ、しかし考えないと、余りにも自分勝手な行動を起こす忍に 切れそうな自分にブレーキをかけたくて、夏流は考えに没頭した。 隣にいる忍は、交際宣言に気を良くしているのか、やたら機嫌がいい。 ああ、もし、世の中、法律と言うモノが存在しなかったら、確実に夏流は忍をこの世から抹殺する事を目論んだであろう。 (ああ、今迄、人の事をここ迄憎む気持ちって、私の中で存在したかしら…! あの、辛い時にだってここ迄の憎しみを持つ事なんて無かったわ!) 過去の自分を振り返りながら、ああ、何故、自分はここまで不幸なんだと、我ながら自分の境遇に同情した。 「はああ、憂鬱…」 隣で夏流のつぶやきを聞いていた忍は、すかさず夏流に言葉をかけた。 「俺と一緒にいるのがそんなに憂鬱な事か? これだけ、深く君の事を想っているのに…。」 「何が深く想っているのよ。 急に言われたって、今迄の貴方の態度を見て、どう信じろと? 新たないじめにしか見えないんだけど? もう、私をからかうのはやめない?坂下君。」 「忍」 「え?」 「名前で呼べよ、夏流。」 「貴方ね〜、聞いてるの!!! 私の事も名前で勝手に呼ばないで! もう、気分を害するから!」 ぷいと横を向き、あからさまに不機嫌な様子を見せる夏流に、忍は、夏流の顎を捉え、そっと耳に囁きかける。 忍の蕩ける様な甘い囁きに、夏流は不覚にも、ぞくりと身を震わせた。 魅惑的な声で耳を翳める忍の行動は、夏流の動きを一時的に鈍らせる事が出来た。 「ねえ、俺が言ってって言ってるんだよ、夏流。 言わないと、どうしようかな?」 くすりと笑う忍に、いちいち怒りを示す夏流が余りにも可愛くって、忍は更なる行動に出た。 ゆっくりと左耳に唇を寄せて、耳朶にそっと唇を落とした。 「な、何するのよ。 や、やめてくれない、坂下君!」 わなわな震えながら、耳迄真っ赤にして怒り狂う夏流に、忍は思わず破顔した。 「あはははは、本当に夏流って、可愛いね。 ふふふふ」 「か、からかっているの。 もう、もう、イヤ!」 真っ赤になって逃げ出そうとする夏流の腕を捉えた忍は、素早く夏流を抱きしめた。 忍の行動に驚き、腕から逃れようともがくが、所詮男と女の力の差は歴然としたもの。 暴れても無駄な抵抗だと観念したか、夏流は忍に大人しく抱かれたのであった。 宥める様に髪を触れる指が思いのほか優しくて、夏流は憤る気持ちが自然と和らぐのを感じた。 そして、体を抱きしめる腕の力、それに仄かに薫る忍の匂いに、夏流は別の意味で騒ぐ自分の心に戸惑った。 (な、何、この感じ…。 なんか、凄く落ち着かないんだけど。 ま、まさかね…?) 心拍数が一気に上昇する感じに夏流は、思いっきり戸惑い顔を赤らめた。 そんな夏流の様子を見た忍は、うっとりとした表情で夏流に微笑んだ。 「少しは俺の事を意識した?」 「な、何を急に言うのよ!」 「ふふふ…」 「も、もう。 いい加減に放してよ、坂下君」 「そうだね。 これ以上夏流に触れると、自分を押さえられないから」 「さ、坂下君!」 「日曜の夕方6時に、駅前で待ってる。」 「…」 「じゃあ。」 忍が去った後、夏流は倒れ込む様にベットに突っ伏した。 脱力感が一気に体を押し寄せて、心身疲れきった夏流は、ゆっくりと目を瞑った。 何も考えたく無かった…。 忍の一挙一動に自分が振り回されてる事に情けなさを感じつつ、抱きしめられた忍の腕の力に、仄かに薫る爽やかな匂いに 今迄と違った感情が宿りつつある事を、夏流は認めたく無かった。 (やだよ。 これ以上、振り回されたく無い。 自分の中に、誰も踏み込まないでよ…。 傷つきたく無いのよ) 気持ちの中で忍との距離が少しずつであるが、縮まっているのを考えながら、夏流は深い眠りについた。 その後、忍に会う日曜日の夕方迄、夏流は忍とのこれからの付き合いをどう断ればいいのか、散々悩んだが、 答えが出る事は無かった。 時間が否応無しに、忍とのデートの時間に進めて行った。 (ああ、今から坂下君とデート…。 これから、どんどん、彼のペースに流されて最後は…) 待ち合わせの時間の5分前についた夏流は、すでにその場にいる、忍の姿に目を見張った。 生成りのTシャツにブラックジーンズ、インディコブルーのシャツを羽織った忍は、モデル並みのスタイル、美貌を誇っていた。 誰もが忍の姿振り返り、うっとりと見入ってる。 その忍が自分に気付き、誰にも見せた事が無い甘い笑顔で、自分を迎える。 一瞬、自分の胸が高鳴ったのを、夏流は思いっきり否定した。 (駄目よ、夏流。 絶対に惹かれたら駄目! 傷つくのは目に見えてるんだから。 私も今迄、付き合った人達と二の舞になるのよ。 だから。 だから…!) この場から逃げ出したい衝動を抑えながら夏流は、ゆっくりと忍の元へ向かったのであった。 |