噂の彼氏 その5 後編



「…君は何か勘違いをしているね」

豪の言葉に夏流は目を見開き豪を見つめる。
声が震えて上手く言葉を繋ぐ事が出来ない…。

「で、でも母の病状を貴方は知って…」

「それは忍から聞いたと言っただろう?」

淡々と口調を変えずに穏やかに話す豪に夏流はかぶりを振りながら、違う…と何度も訴える。

「だって、その事は私と叔母夫婦しか知らない…!
忍には言っていない…」

「夏流君。
人の記憶とはとても曖昧だ。
君が誰にも話していないと思っていても私が知っている。
それは君が知らない間に忍に話していたんだ…。
私は…、婚約が決まった時、忍から君の今迄の経緯を聞いた。

忍から君の話を聞いて思ったんだ。

君には忍と…、幸せになって欲しいと…。」

「…」

「君には本当に幸せになって欲しい。
それは10年前、君に伝えた時と今でも同じ気持ちだ。」

「…坂下さん」

「…済まない。
これから私はこの後、商談があるのでこれにて失礼する。

…夏流君。

君に逢えて良かった。
忍と幸せに…」

そう言い立ち上がろうとする豪の腕を夏流は掴む。
夏流の急な行動に豪は一瞬、立ち止まってしまった。

「待って下さい…。
坂下さん!」

「…離してくれないか。」

「…私にお時間を下さいませんか?」

夏流の言葉に豪の視線が揺らぐ。

「お願いします。
私、貴方と話がしたい!
どうして私を助けて下さったのか、貴方から聞きたいんです…」

夏流の強情な迄の行動に豪は深いため息を零す。

「…君は本当に昔から変わらない。
自分の意志を頑に通そうとする…」

「…迷惑だとは解っています。
でも、私は…。
私はこの10年間、とても幸せでした…!」

「…」

「だからお礼を言いたいんです。
私は、幸せだと。
誰よりも幸せだと…
その思いを貴方に伝えたいんです!
だから、お願いします。
何時でも構いません、私ともう一度会って下さい。
そして改めてお礼を述べさせて下さい…!」

「…」

「引き止めて申し訳ございませんでした。
私も帰ります。
ごちそうになりました。
フルーツタルトと紅茶、とても美味しかったです。」

泣き笑いの顔で会釈し、エレベーターに乗ろうとする夏流を追いかける様に豪もエレベーターに乗り込む。
そして直ぐさまエレベーターのボタンを押し扉を遮断する。
乗り込んで来た豪の行動に夏流は声を失う。

「…坂下さん」

「…どうして君は俺を煽る。」

「…え?」

「…どうして俺に感情を持たせる…」

「…何を言って…」

2人しか居ないエレベーターの中で距離を詰め寄る豪に、夏流は思わず後ずさる。
豪の目に、あの深い光が宿る。

「い、嫌…!」

恐怖で体が震えて身動きが取れない。
それ以上にあの深い目に心が奪われている…!

「…どうして…」

「放して坂下さん…!」

強く抱きしめられ身動きができない状況に夏流は恐怖で顔が歪む。
豪の腕の中でがたがた震える夏流に気付いた豪が腕の力を緩め、そして夏流の顔を覗き込む。

豪の表情に夏流は目を離すことが出来ない。
顔を歪ませ切なく自分を見つめる豪に、夏流の目から涙が溢れた…。

「…俺は」

いつの間にか抱擁が解かれ身体が解放される。
エレベーターが着き扉が静かに開く。

無言のままエレベーターを降りる豪の背中を見つめながら、夏流はその場にて動く事が出来なかった…。



「…美咲、ごめん今から行ってもいいかな?」

「どうしたの、夏流…?」

「ごめん、私、今、美咲に会いたい…」

「夏流…」

「解らないの。
私、どうしたらいいのか解らないの…!」

泣きながら携帯で訴える夏流に美咲は直ぐに迎えに行くからその場所を動かない様に伝える。
美咲との話を終え、駅のベンチにぽつりと座りながら夏流は視線を彷徨わせていた。

先程の豪のあの顔が夏流の心を深く突き刺す。

涙が自然と頬を翳める。

「どうして私は知らなかったんだろう…?
10年前の、あの出来事が、あの優しさが、私を想う表れだと何故解らなかったんだろう…」

嗚咽が零れて指先が震える。

「忍…。
私は…」

抱擁が解かれた時、耳を翳めた豪の言葉が夏流の心にさざ波を引き起こす。

涙が溢れて止める事が出来ない…。

(愛している、夏流…)

「坂下さん…」

豪の名を呟きながら夏流は胸に溢れる想いに心を震わせていた…。



「For You」に続く

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