噂の彼氏 その5 中編



(困ったわ、どうしてこんな事に…)

豪に腕を掴まれ強引にエレベーターに連れられた夏流は思いっきり困惑していた。
掴まれたまま腕を取られている状態に、顔を顰める。
夏流の表情に気付いた豪が思案し、夏流に言葉をかけた。

「…まだ怖いか?」

問われた言葉に一瞬、思考が止まる。
豪に視線を向けると自分を見つめる豪の瞳に胸が詰まった。

(な、何…。)

豪の自分を見つめる深い瞳が言葉を紡がせない。
切なくて、自分に何かを強く訴える瞳の熱さが自分の感情を捕らえて離さない…。

(こ、怖い…。
だ、駄目、夏流。
これ以上見つめると…)

自分は捕まってしまう。
彼のあの深い瞳に…。

(何故、そう思うんだろう?
坂下さんは忍の義兄で、私の未来の義兄にもなる人なのに…)

混乱する感情を抱きながら無言を通しているといつの間にかエレベーターは最上階に到着した。
降りる事を促す豪に、夏流は戸惑いながらも付いて行く。

降りた途端、吹き抜けによって視界に広がる光の洪水に夏流は思わず嘆息を漏らした。
「綺麗…」と呟く夏流に豪はまたあの、深い目で夏流を見つめる。

見る者が見れば解るであろう、愛おしさを込めた瞳で…。

一番奥の花々が特に綺麗に咲き乱れる場所に案内された夏流は豪に勧められる席に座った。
対面するカタチで向かい合う状態に、夏流は息苦しさを感じていた。

帰りたい…と今にも逃げ出したい感情が気持ちを支配する。
だけど、もっとあの瞳を見つめたい、と心の隅で感じているのも事実だ。
一瞬、感じたその思いに、何故?と心の中で問うていると豪からメニューを差し出された。

「オススメは先程伝えたフルーツタルトだが、ティラミスも美味しいと私は思っているが…」

そう伝える豪の瞳が優しくて、夏流はほんのりと頬を染めた。
熱くなる頬に自然と手を添える。
そんな行動に慌てふためく夏流の初な様が可愛らしくて、豪はくつくつと笑い出した。

自分の行動を見ての笑みだと気付いた夏流は豪に、少し拗ねた様子で言葉をかけた。

「…そんなに可笑しい事でしょうか?」

不機嫌な様を素直に訴える夏流が愛らしい…。
豪はそんな夏流をもっとからかいたい、と思い夏流に微笑みながら話しかける。

「君は昔と変わらないね。
本当に素直で、可愛らしい…」

「な、何を急に…!」

豪の自分を褒める言葉に夏流を真っ赤にさせ、もっと言葉に詰まってしまう。
夏流の初な様に豪の愛おしさは増すばかりだ。

そして思う。
心の中にある情熱はまだ燻っている事に。
あの、炎を思わせる熱情は今でも自分の心の中に確かに存在している事を豪は確信した。

(今日、出会った事は果たして俺にとって良かった事だろうか…。
諦めた感情に火が灯る。
夏流の幸せをただ思い、恋情を押しとどめた。
忍と幸せになって欲しくて。

だが、こうして夏流を直に見て俺は…!

駄目だ…。
これ以上感情に捕われたら、俺は…)

抑えが利かなくなる、と自分の中に湧きたつ感情を戒める。
どうにか感情を抑えようと夏流との会話に気持ちを集中させた。

一方の夏流も豪との会話に思案に暮れていた。
どうこれから会話を続けたらいいのか、正直解らない。

(ど、どうしよう…。
坂下さんと何を話したらいいの?忍の事…、と言っても先程言った内容以外に話す事も無いし)

静寂が2人の中で静かに流れる。
豪が少し思案しながら夏流に問う。

その言葉に夏流は衝撃を受けていた。

(な、何、何故、坂下さんがその事を…!)

今迄の豪に対する感情が一気に変わる。

どうして彼はその事を知っているの?
どうして彼は私と多恵ちゃん夫婦しか知らない事を知っているの?

「君のお母さんは元気かい?」

「…え?」

「君が高校を卒業する前に肺炎を起こして、危篤状態に陥っただろう?
その事を忍に聞いて、心配になって」

「…そうですか?」

「ああ、その後の転医した病院の処置が良くてあの後、良好だと聞いたから。」

「…ご心配して頂き有り難うございます」

「いや、君は俺にとっても大切な」

「…え?」

「ああ、忍にとって大切な人だから、俺も心配なんだ…」

「…」

これ以上の会話に夏流は感情を保つ事が出来ない。
豪に対して疑問が強くなる。

(だって、高校卒業前に母が危篤に陥った事、その後病院の勧めで転医した事、私、忍には話していないのに何故彼が…?)

そういえばあの時、母の病状で精一杯で考える事が無かった。
何故、あんなにもタイミングよく転医先を紹介されたのか…。

障害者である自分の母が特別室とも言える病室に転医されたが、食事代は請求されるが室料は毎月の請求には含まれてはいない。
一度、室料の事が気になって受付にて聞いた事がある。
自分の母のいる病室の料金を…。
一日何万とする病室に既に症状固定し等級が決まり、重度障害者の手続きを行った母が入れる病室ではない。
それくらい知識の無い自分にだって解る事だ。

だけど未だに母はあの病室に居る…!

(まさか…!)

自分の脳裏に浮かんだ事が自分の感情を支配する。

転医後、卒業と同時に運良く決まった今の就職先。
今の母の病院に近くで高卒の自分に対して待遇もよく…。

(そんな事、まさか、あり得ない!
でも、でも…!)

どうして考えなかったんだろうか?
今、自分が於かれている恵まれた境遇が偶然の産物ではない事を…。

何故、疑問に思わなかったんだろうか?

誰かが自分を見守っている。
助けてくれている…!

自然と涙が流れる…。

急な夏流の涙に豪が言葉を失う。
呟く言葉に豪の瞳にあの深い光が宿る…。

「貴方が今迄私を助けて下さったのね、坂下さん…」

夏流の言葉に豪は無言でただ静かに夏流を見つめていた…。




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