噂の彼氏 その4 「また今年もやってきた…」 はああ、と深く息を吐く忍に身重の夏流が苦笑を漏らす。 「仕方ないじゃない。 去年の事を思って忍が今年は誰にも頂かないと突っぱねたら患者さんからのブーイングが荒ましくて診察にならなかったって忍、ぼやいていたじゃない。 その事を考えたら、チョコレートを貰う事くらい、どうってことではないでしょう? それにそこまで思われる忍の人格に、私、すんごく尊敬の念を抱いているんだけど…。 ねえ、忍。 とっても有り難い事よ。 思われるってことは。」 半分からかいを含めた夏流の言葉に忍は鋭い視線を投げ掛ける。 しかめっ面をしながら不機嫌な様を表す忍に、相変わらず子供っぽい、と夏流の心の中で苦笑を漏らした。 「夏流の体がやっと安定期に入って日常生活を営む事が出来る様になったけど、妊娠初期は悪阻は酷いし、チョコレートの匂いを嗅ぐと 吐き気を催していただろう? その事を考えると俺は、また大量のチョコを見たらその時の事を思いだして夏流の体調に異変を来す事が心配なんだ…。 その事を今回、俺は皆に伝えたんだが上手く伝わらなかったらしい…。 俺の言葉が足りなかった。 済まない夏流…」 珍しくしおらしい態度を取る忍に、夏流は目を見開く。 流石に父親になろうとすると、少しは成長をするんだ…、と夏流は心の中でいたく感動した。 (ああ、親になる事って本当に偉大だわ…。 謙虚になることを知らない忍がこうも態度を改めるとは。 ああ、やっと私も少しは忍との会話に接点が…。 噛み合ない会話を再々行っていたけど、これで意思の疎通が簡単に出来るわ。 有り難うね、お腹の赤ちゃん…。 貴方のお陰よ…。 ママ、今、とっても幸せよ) うっとりと微笑みながらお腹を擦る夏流に忍が淡く微笑む。 最近、夏流は柔らかく微笑みながらお腹の子供に語りかける。 その様子を見つめる事が出来る忍は、自分がどれだけ今、幸せかというのを実感している。 そして思う。 これでもう、夏流は自分だけのモノだと言う事を…。 子供が出来た事で完全に掌中に収める事が出来たとそう心の中でほくそ笑んだ…。 時折、忍は義兄である豪の事を思う。 輝から語られた豪の夏流への想いに忍は嘗て無い程動揺した。 もし豪が夏流に想いを告げていたら、自分の恋は完全に実らなかったであろう…。 夏流が豪に心惹かれるのは目に見えて解る事であったから。 豪の持つあの優しい性質は、夏流がまさに望む理想の男性像である事を忍は感づいていた。 (兄貴は透流にとてもよく似ている。 いや、透流が兄貴に似ているんだ…。 2人とも人の気持ちの機微に敏感で、優しい思いやりに満ちあふれている。 夏流が兄貴に気持ちが傾く事も自然の成り行きだ…!) だから付き合い始めても、そして今に至っても忍は極力夏流を豪に会わす事を控えた。 何時、夏流の気持ちが豪に傾くか、忍はその事を危惧していた。 それ程忍にとって豪の存在は脅威であった…。 急にだんまりになる忍に夏流は不安げに視線を投げた。 時折忍は視界を彷徨わせる事がある。 何かに考えを捕われて表情を無くす様に、夏流は過去の出来事を思い出しているのでは?とそう思えて仕方がない。 (何が忍にあんな表情をさせるのかしら? ねえ、忍…。 私達は夫婦なのよ。 私には言えない事なの? 忍がそんな顔をしているのを私は黙ってずっと見つめないといけないの?) 心の中で反芻する言葉を伝える事が出来たら、忍の不安が何かを言うのを夏流は知る事が出来るであろう…。 だがそれを知って夏流がどう思うか、その言葉を恐れる忍である事を夏流は知らない…。 「ねえ、今年はチョコどれだけ頂くと思う?成月先生。」 「去年はトータルで647個頂いたみたい。 外科外来の受付が頂いた方のリストと一緒にチョコを集計したんだって♪」 「相変わらず凄いとしか言えないわよね、成月先生の人気…」 「でもね、今年は本当に辞退したいって何度ども言われたんだけど、患者さんからのブーイングが荒ましかったので結局成月先生が折れたって。 奥様に患者さんの気持ちを無下にしたら駄目だって嗜められたって話よ。」 「へええ、流石に出来た方よね、奥さん。 成月先生の奥さんって、成月先生が10年間想いを募らせて結婚した相手でしょう?」 「う、うそおおおおお…! 私、初耳よ、その話! うわああ、凄い純愛ね。」 「だから成月先生、奥様にメロメロだって。」 「確かにやっと実った恋の相手と結婚だったら他に目が映らないよね…。」 「成月先生が今年のチョコを断った理由って、奥さんの体調が心配なので控えたいってことでしょう? 安定期に入ったといっても、妊娠初期にチョコの匂いで何度も吐いたって。 だから成月先生はその事が心配で今年はどうしても辞退したいと何度も訴えたんだけど通じなかったみたい。 訴える先生の表情、何時に無く真剣で流石に皆、解ってよ、と口からでそうになったわ。」 「まあ、今回も見物、と今年はお気軽には言えないわね…」 「そうねえ…」 「あ、成月先生、出勤して来たわ。 うわあ、今日の顔、もう能人形。 表情無いわ…」 「…私、今日、先生に関わりたく無いな…」 「私も〜」 無表情の趣で診察を始める忍に流石に職員一同、言葉を無くしたが、診察の際、忍から出る言葉に患者さんを含め職員一同が感動し、 忍のまた人気が高まったのは言う迄も無い事であった…。 「ただいま、夏流」 何時もより早い帰宅に夏流は一瞬、頚を傾げながら忍を玄関迄出迎えた。 忍を見た途端、手元に何時もなら持ち替えるであろうチョコが一つもない事に軽い衝撃を夏流は受けた。 そんな夏流に忍が淡く微笑んだ…。 「まさか成月先生がチョコを持参した方々に頭を下げるなんて思わなかったな…」 「う〜ん、真摯に訴えながら言う成月先生、素敵だった」 「本当に奥さんの事を愛しているのね。 あんなに深く愛されている奥さんて本当に幸せな方ね。」 「しかしあの先生が、妻の事を誰よりも大切に想っているので、今回控えさせて欲しいと頭を下げて言われるとね…。 その妻が今、妊娠中でチョコの匂いで体調を崩す事が自分にとってどれだけ打撃を受けるかと必死に訴える先生…、なんかいいな〜と思った。 うん、とても優しいな、って。」 「あんな風に語られたら誰も言えないでしょう。 でも来年は皆さんの気持ちにちゃんと応えたいと言った言葉に、また皆感動したのよね。」 「これで来年は700個は行くと踏んだ。 いや〜、もしかして1000個確定かな…」 「どちらにしても斎賀総合病院は安泰って事ね。 成月先生と言う看板医師がいるんだから。」 「ま、そういう事ね。 ああ、今年のボーナスが楽しみ♪ 今回、どれだけ色がつくかしら。」 「それとこれとは別物の話よ。」 「そうかなあ…」 忍が帰宅した後、忍の為にチョコを用意していた夏流は忍に手渡しながら微笑んだ。 「私の事を心配しなくても良かったのよ。」 そういいながら微笑む夏流に忍は夏流の唇にキスを落とした。 「でも俺にとって夏流の体調が何よりも心配だから。」 「忍…」 「ねえ、夏流。 今、幸せか…?」 急に問われる忍の言葉に、一瞬、目を見開きそして目を細め微笑んだ。 「ええ…」 夏流の言葉に安堵の息を吐き忍が微笑む。 「有り難う、夏流…」 そういいながら忍はまた夏流にキスをする…。 (確かめないといけない幸せなのかと不安に感じる時がある…。 だけど俺はそれでも…。 それでも今、幸せなんだ。 夏流、君が側にいるから…。 俺の側で幸せだと微笑んでくれるから!) 「ねえ、夏流。 来年は覚悟した方がいいみたい。 来年は647個以上はいきそうだ。」 急に真面目な表情で言う来年のチョコの個数に夏流は爆笑した。 「はいはい、忍の人気が荒ましい事は解ったから。 ホワイトデーの予算、去年の1.5倍、立てていた方がいいのかな?」 「いや2倍はいくだろう…」 「ふふふ。 では積み立てをしないと、ね。」 夏流の言葉に忍は苦笑を漏らしながら、しっかり者の奥さんを持って本当に良かった、と心の中で夏流に甚く感心していた…。 気に入って戴けたら、ぽちっと押して下さるととても嬉しいです♪ 書く励みになります(深々) |