噂の彼氏 その3




「久しぶりです、輝さん。」

婚約を交わした忍と夏流は高槻グループが運営する「ホテルタカツキ」に式場の予約を入れるべく赴いたのであった。

「…で、何時にするか日取りは決まったのかい?」

柔らかく微笑む輝に忍が満面の笑みで答えた。

「三ヶ月後の第2日曜日に。」

「そうか。
では、鎌倉の「ホテルタカツキ」でプランを入れたので構わないだろうか?」

少しからかい気味な輝の口調に忍が苦笑する。

「輝さんも人が悪いですね。
あそこがどういう意味合いで建てられたか知って、俺に勧めるのだから。」

忍の言葉に輝が破顔する。

「…で、坂下のご両親に、夏流君は挨拶を済ませたのかい?」

急に振られる輝の言葉に夏流が戸惑いながらも答えた。

「…ええ。
忍さんとの結婚を、とても喜んで頂けました。」

はにかむ様に微笑む夏流に輝が目を細める。

「…やっと、君の幸せな姿を見る事が出来るんだね…」

考え深げに言葉を零す輝に夏流は更に頬を赤く染めた。
その横で忍はじっと輝の様子を窺っていた。

(夏流の幸せな姿か…。
兄貴に夏流の花嫁姿をやっと、見せる事になるんだな。
俺たちの婚約を心から喜んでくれた兄貴。
もし、俺が兄貴の立場ならあの笑顔を向ける事が出来るだろうか?
慈愛に満ちたあの穏やかな微笑みを…)

夏流を連れて坂下家に婚約の報告をした時の豪の表情を思い出す。

忍の言葉に誰よりも喜びを表し祝福してくれた…。

(どんな気持ちで夏流を見つめていた?
あの、穏やかな微笑みに何を思い、何を隠して俺たちに祝福の言葉を述べた?
俺は、今になって兄貴がどんな人物なのか、解らない。
穏やかで、優しくて、時折俺をからかい、坂下の家族に言葉で言い負かされ苦笑しながら困惑する兄貴しか、思い浮かべる事が出来ない。
そういう姿しか見せない兄貴の本心は一体、何処にあるんだ…?)

考え込む忍の肩に触れ夏流が不安げに視線を落とす。

夏流の視線に気付いた忍が苦笑を漏らす。

「どうかしたの?忍」

「いや。
何でもないよ、夏流。
そろそろ御いとまをさせて戴きます、輝さん。
また細かいプランの打ち合わせは、来週の日曜日の午前中に伺ったので構いませんか?」

「…ああ。
予定を入れておくよ、忍君」

「有り難うございます。」

そう言葉を切り、挨拶をしながら輝の元を去る忍と夏流の姿を見つめながら、輝は背広の内ポケットから携帯を取り出しボタンを押す。

何度目かのコールに出る相手に微笑みながら言葉をかけた。

「今日の夜、一光で飲まないか?
豪…」

輝の急な誘いに携帯越しの豪が軽く笑う。

「相変わらず急な誘いだな、輝。
まあ、いい。
で、何時に行けばいいんだ?」

「時間はお前に任す。
今日はとことんお前に付き合うよ、豪。」

輝の言葉に豪はくつくつと笑い出す。

「…バカだな、お前は…。」

「そっくり、その言葉をお前に返すよ、豪。」

一光でまた、会おう、と言葉を終えた輝が携帯を切る。

深く溜息を吐きながら輝は、穏やかに言葉を紡いでいた豪の心情を思った。

「お前は何処迄も「坂下豪」としか生きれないんだな…。」

輝の紡ぐ言葉が寂しい響きを含んでいるのを、誰一人知る事は無かった。


「しかし、この「鳳凰の間」でお前と2人で飲むのも、オツなモノだと言うべきであろうか?」

「まあ、いいだろう?
たまには。」

豪のからかいを含めた言葉に輝が軽くあしらう。

輝の様子にくつくつと笑いながら、豪がグランドピアノの蓋を開け椅子に腰掛けた。
ポロン、と響くピアノの音に輝が豪を見つめる。
ピアノを見つめる豪の瞳が何時もと違う様に、輝が苦笑を漏らした。

「…いつもそんな風に感情を吐露したら、もっと人生が楽だと思うのだが…」

輝のつぶやきの様な言葉に豪がふと微笑む。

「そうだな…」

「で、俺に何を聴かせてくれるんだ?豪」

輝の言葉に無言でピアノを弾きだす豪に、輝は目を瞑り演奏に耳を傾けた。

最初は穏やかに、ゆったりと感情を少しずつ露にしていく。
だんだんと激しく思いのまま感情を表しピアノを引き続ける豪に、輝は言い様も無い哀しみに捕われた。

「坂下豪」と生きる事を強いられ、何かを望む事さえ許されず、自分の存在を剥奪され、夢を潰された豪がただ一つ望んだのが夏流だった。

夏流に思いを打ち明ける事もせず、ただひたすら忍と夏流の幸せを願った豪の心に輝は胸を痛めた。

(どうしてこの旋律の様に感情のおもむくまま、生きなかった?
お前が望めばピアニストとしての夢も、「門倉豪」として生きる道も、そして夏流君への愛も実を結んだはずだ。
なのにお前はあくまでも「坂下豪」として生きる事を選んだ…。
坂下の後継者の道を)

今迄激しい旋律でピアノを弾いていた豪の旋律が柔らかいモノに変わった。

甘く切ない感傷的な旋律に輝は、じっと豪の姿を見つめていた。

演奏する豪の瞳には涙が浮かんでいた…。

長い演奏を弾き終えた豪に、輝は拍手をしながら豪に言葉をかけた。

「…最初の演奏はベートーベンの「月光」と「悲愴」と「熱情」か…。
で、最後の曲は…。
それがお前の本心なんだな、豪。」

溜息をつきながら言葉を発する輝に、豪が淡く微笑む。

「…そうだ、これが俺の本心だよ、輝。」

「本当にお前は馬鹿だよ、豪!」

「…そうだな」

否定をしない豪の言葉に輝の柳眉があがる。

そしてまた一つ息を吐く。

「…今日は飲み明かそう、豪。」

「ああ。
輝、侑一や、孝治達も呼ばないか?
今から「六家の集い」を行おう。」

「却下!」

輝の即座の返答に豪が爆笑する。

「じょ、冗談だよ、輝。
俺の言葉を真に受けるなよ!」

くつくつと笑う豪に輝が不機嫌な口調で言い返す。

「お前、俺に対して人が悪いよな、豪!
皆にお前が穏やかな人柄だと思わせているが結構、根性が悪いぞ。」

「お互い様だろう?輝。
それに俺が本心を語れるのはお前達だけだよ。」

「…特に俺には?だろう」

輝の付け足しの言葉に目を細め笑う。

自分に対して少し子供っぽい感情を出す輝に豪はまた、笑みを零した。

「…有り難う、輝」

豪の急な礼に輝が苦笑を漏らす。

「ふん。
本格的に飲むぞ。
お前、潰される覚悟で俺に付き合えよ、豪」

「ああ」

からんと、氷がグラスの中で溶ける音が木霊する…。

目を細めじっとグラスを見つめながら豪は、昨日の夏流の笑顔を思い浮かべていた。

ずっと望んでいた笑顔。

忍の側で幸せな微笑みを浮かべていた夏流。

夏流の幸せな様を目の当たりをして、豪の胸に鈍い痛みと喜びが混ぜ合った感情が押し寄せた。

(ただひたすら君の幸せを望んだ…。
だが本当は。
俺は君が誰よりも欲しかった。
俺の側でずっと君に微笑んで欲しかった…)

先程の演奏を思い浮かべ、ふと微笑む。

「ジュ・トゥ・ヴー、か…
永遠に消える事無い、想い、か。」

感傷的だな、と吐息を零しながら豪は、輝と酒を酌み交わし始めた…。




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