Act.38 夢の住人 その8




何が正しくて何が間違っていたのか…。

目覚める前の「僕」、目覚めた後の「俺」、そして全てが始める以前の「僕」…。

最後に「坂下忍」の感情を制していたのは、一体、どの感情だったのか…?


「坂下忍」として構築された感情は、夏流に出会う為だと思っていた。

実際、夏流との出会いが「坂下忍」としての人生をスタートさせた。

だが…。

夏流に辿る迄の俺は、既にあの時の「成月忍」ではなかった…。


夏流との交際が始まった時の俺の感情をどう喩えればいいのだろうか?

巡り会うべき相手に出会った「俺」の心は歓喜に震えていた。

そう、おかしな事に心が弾んでいた。

目覚めた時から誰に対しても関心の無い「俺」が、夏流といると毎日が新鮮だった。

見るもの全てが今迄感じる事がない色彩を帯び、そして触れるもの全てが心に伝わり、温かさに満たされていた。

ああ、これが以前の俺が感じていた「感情」。

そして、この「感情」こそが目覚めるが為に封印した、「感情」でもあった…。

だんだんと強くなる感情は、あの事故での思いを俺に呼び起こしていた。

見るもの全てが歪み、哀しみに心が捕われ、そして溢れる程の自責が精神を圧迫させた、あの…。

思いださすな…!

心の中で何度も何度も「俺」は叫んだ。

だけど、俺の中の「僕」がこう囁く。


自分が目覚めたら、この思いに捕われる事も想定されていたハズだよね。

だけど、君は「僕」の言葉を無視してここから出て行った…。

ねえ、君?

本当に君は許されるべき存在だと今でも思うのかい?

違う、俺は夏流が俺を求めたから、目覚めただけだ。

許されるべき存在、云々の前に俺はそういった意味で生きてるのでは…。

じゃあ、何故、今、存在する?

君は夏流から、心から求められてる訳ではないではないか?

夏流は君の事に気付きもしなかった。

ああ、ごめん。

君ではなく、「僕」だった。


ふふふ、滑稽だよね。

君が夏流の心を掴める事なんて出来る訳ないじゃないか?

だって君には最初から、そういう「心」がないハズだ。

それは「僕」が持つべき物であり、君が持つべき物ではない。

君は最初から、「僕」ではなかった。

そう、君は…。

夏流が心から求めるべき存在ではなかったんだよ…!


夏流が俺を否定すれば否定する程、自分の中で自分が膨れ上がり暴走した。

止めなければならない。

そうで無ければ、俺は…。

俺は夏流を傷つけてしまう。

本当に望んでいた「思い」から、夏流を求める事が出来なくなる。

違う…。

俺は、俺の存在が本当に許されるべき存在だと言うのを証明出来なくなる。

交差する思いの中で、俺は夏流に言われた一言で、心を停止した。


「憶えていない」


そう。

俺は最初から、夏流に存在すら認められていなかった…。


意識の混沌が始まり、その波に飲み込まれた「俺」は既に「俺」ではなかった。


その時から、「坂下忍」は僕の中から消えてしまった…。




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