Act.31 夢の住人 その2




虚ろに映るその瞳に光が差し込んだら、今よりももっと綺麗だと、あの時そう思った…。

豪の許可を貰い忍を屋上に連れて上がった夏流は、忍と初めて出会った事を思いだしていた。
時々、忍の顔を見つめ淡く微笑む。

その微笑みは何処迄も優しくて、心に迫るモノがあった…。


「この子も意識がないの?」

最初、朱美と忍を見つめた夏流が話したのがこの一言だった。
夏流の言葉に隠された意味が分かったのか、朱美は悲しく微笑んで夏流に答えた。

「そう。
しーちゃんは、事故で心に深い傷を背負ったの…。」

朱美の言葉にぴくりと反応する夏流に、朱美は自分が感じた事を確信した。
そして更に、こう言葉を続けた。

「もし、良かったらしーちゃんと友達になってくれないかしら。」

朱美の意外な言葉に夏流は、思いっきり目を見開いた。

朱美が柔らかく微笑む。

綺麗で優しい微笑みに一瞬見惚れた夏流は、断るタイミングを失ってしまった。

確かに忍の存在に強く心惹かれるが…、何をどう友達になり話せばいいのか、夏流には皆目検討がつかなかった。

「あの、友達になるって言っても何を話したら…」

夏流の言葉に確かに、と感じたが、だが朱美に今の忍にとって夏流は必要な存在だと直感した。

それは多分、夏流が忍にとって一番近い立場にいると察したからであろう。

朱美はにっこりと微笑んで話した。

「毎日、貴女が日常で起きてる出来事を話してくれたらいいの。

楽しい事や、そう、身近な事や、貴女の…、悩みとか。」

「…悩み?」

最後に付け加えられた言葉に、夏流は壮大に驚いた。
朱美に自分の悩みが解ったのだろうか?と一瞬、背中に冷や汗が流れた。


「貴女が今、何を悩み悲しんでいるかは私には解らないけど…。

だけど、これだけは解るの。

貴女はしーちゃんと同じ哀しみを心に抱いている事を。

しーちゃんはね。

事故で両親を亡くしているの…。」

朱美の言葉に堪らなくなり夏流はぽろぽろと泣き出した。
急に泣き出す夏流に朱美はそっとハンカチを差し出し、優しく涙を拭った。

甘い薫りが鼻孔をくすぐり高ぶる夏流の気持ちを落ち着かせた。

そして改めて忍の顔を見つめた。

綺麗な男の子。

彼がにっこりと微笑んだらきっと天使みたいなんだろうな、と思った。

(話したらどんな声で話すんだろう…?

もし、彼が目覚めて話が出来たら、私は今、この心にある寂しさを拭えるかもしれない。

絶対に私の事を誰よりも解って、励ましてくれる…。

それにあの子が目覚めたら、お母さんだって絶対に目覚めるわ。

だって同じ病気なんだもの。

絶対にそうに決まっている。)

あの時の私は、そう信じて疑っていなかった。

その日から、私の日常にしーちゃんとの会話が含まれる様になった…。

天気がいい日には屋上で語り、雨の日にはデイルームで語った。
毎日が決して楽しい事ばかりではなかったが、それでも以前に比べると穏やかに過ごせる様になった。

しーちゃんとの語らいは、私の心だけではなく、日々起こる出来事にも変化を起こした。

学校でのいじめが何故かぴたりと止まり、そして病院での母親の待遇が一気に良くなった。

最初、余りの変化に私は目を疑ったが、だが、それよりも母親の事としーちゃんの事でいっぱいだったので、それ以上の事は考えなかった。

しーちゃんと出会い、一ヶ月が経過していった。

だが、私の母もしーちゃんも決して目覚める事はなかった…。

そしてしーちゃんとの別れの日が突然やって来た。

そう、母の症状が固定と判断され救急にいる必要性がなくなり、転医が決まったのだ。

転医先は完全看護で待遇もかなりよく、多恵ちゃんも私もずっと側にいなくても良くなった。

母の転医に伴い多恵ちゃんは、今迄勤めていた職場を退職した。

長期休暇に難色を示していた職場は多恵ちゃんにとって、精神的にも負担を与えていた。

確かに事情が事情であっても理解が得難いのも現実だね、と多恵ちゃんはそう寂しく笑った。
退職した際、受け取った退職金の多さに多恵ちゃんは驚いたそうだ。


転医先に近い場所に多恵ちゃんは退職金の一部を頭金として中古マンションを購入し、そして直ぐさま新しい職場を見つけ働きだした。

そして私も付近の学校に転校した。

最後の日に、私はしーちゃんを抱きしめ思いっきり泣いた。

涙がしーちゃんの頬を翳める。

「しーちゃん。

時々、遊びに来るからね。

絶対に目覚めて元気になって…。

私、絶対にしーちゃんが目覚めると信じている…!」

ぴくり、と微かに瞼が動いたのは私の勘違いだったんだろうか…?

引っ越しし環境が新たになった私は、今迄休学して分を取り戻すべく勉学に励んだ。

新しい環境で友達も出来、以前よりも日々を楽しく過ごしたが、私の心の中には自然と人に対して、距離を持つ様になった。

深く付き合うと母の事を詮索され、また同じ虐めにあうかもしれない…、と幼い私は自分の心を防衛する様になった。

そして…。

透流くんとの事が、私にその考えに決定打を与えた…。

やっと精神的にも環境的にも落ち着いた私達は達流おじさんの位牌に焼香を上げるべく透流くんの家を尋ねたのだが、
その時、透流くんのお母さんの言葉が私の心に深く突き刺さった。

母がどれだけ罪深い事を行ったかと言う現実を。

透流くんのお父さんを奪っただけではなく、家族の幸せ迄踏みつぶした事を私はその時初めて直視したのであった。

私達があの時、出会わなければこんな事にはならなかった。

でも、私は…。

それでもこんな事になっても、透流くんの事が好きだった。

だから、封印した。

自分の中にある「恋心」を。

深く付き合わなければ、誰も傷つける事もない。

心を開かなければ、心を守る事が出来る…。

それ以上もそれ以下の感情も持ったら駄目。

私はそれが許される立場ではないのだから…。

月日が経ち、精神的に何とか落ち着きを持った私はしーちゃんを見舞うべく救急に行ったが、しーちゃんは既に救急にはいなかった。

病室に尋ねても他の人が入院していていたし、受付の人に聞いても個人情報に関する事だから教えて貰えず、私はしーちゃんが転室したのか退院したのか、
事態を知る事が出来なかった。

諦めに似た感情が私の心を覆い、そして私は微かな希望を心に灯した。

そう。

しーちゃんが、目覚めて元気になっている事を…。

「しーちゃん。

貴方はずっと私の一方的な会話が聴こえていたのね。

だから、私の心に踏み込む事が出来た。

ううん、違う。

貴方が誰よりも私の事を理解して、想ってくれていた…。

私はその事に全然、気付かなかった。

ご免なさい、しーちゃん…」


いつの間にか日が陰り、西日が2人を優しく包んでいた…。






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