Act.26 哀しみの存在


「来週の日曜日、美樹をお前に会わせたいと思うのだが、時間を作ってくれないか?」

豪の言葉に、忍は満面の笑みを浮かべて頷いた。

花の様な笑顔に思わず頬が緩んだ豪だったが、零れる言葉に一気にどん底へと突き落とされた。

「確か、美樹さんて、兄貴に結婚する迄、指一本触れさせない婚約者さんだよね。」

忍の凶悪とも言える言動に目は血走り、わなわなと肩が震え、手に汗が滲んでいた。

そんな豪を見て、くすりと、笑い、もっと笑みを深くする。

目に含まれている光は、まるで子供がいたずらに成功した時の様に輝いている。

(忍のやつめ…。

こいつ、俺に対してはたまにこんな風に言うんだよな。

こういう時は、絶対に何かがあったに違いない。

全く、こいつも流石坂下家の人間だとつくづく思うよ。

本当に良い性格をしているな)

と心の中で悪態を付けながら、何とか平常心を持って返答した。

「誰から聞いたんだ、忍?」

「別に誰から聞かなくても、兄貴を見ていたら解るよ。

兄貴って、案外、女性にはストイックなんだね。」

「…別にストイックと言う訳ではなくて」

「じゃあ、相手が純真過ぎて手が出せない?」

忍の更なる言葉に、心の中では大人げないと解っていても、感情が勝ってついムキになり突っかかった。

「お、お前、俺をからかっているのか?」

豪の実直な言葉に、忍はあいまいに笑いながら返答した。

ふと、見る表情はどこか影を含んでいた。

「いや、兄貴が羨ましいと思ってね。

美樹さんの事を、本当に大切にしているのがよく解るから。

そして美樹さんも、そんな兄貴の事を心から信頼しているんだな、と。」

遠い目をしながら呟く忍が何故かとても悲しく見えた。

「何かあったのか?」とつい、言葉が零れた。

一瞬、きょとんとした表情で豪を見て、そしてふわりと微笑んだ。
透き通る様な笑みだ。

「兄貴は本当に人が好いね。

だからいつも兄貴の回りには人が集まって来る。

俺はね。

そんな兄貴が本当に羨ましいと思う。

俺には絶対に存在しない感情だから。」
口調を変えず淡々と語る忍が、哀れだと、つい思ってしまった。

何故、こんな感情に駆られるんだろう?と豪は忍を見つめながら考えていた。

人よりも優れた容貌、頭脳明晰であり人々を魅了しても止まない存在でありながら、忍の心は深い闇に包まれている。

「彼女と上手くいっていないのか?」

うっかり出てしまった言葉に忍はふうう、と溜息をついた。

「だから兄貴は苦手なんだ」

忍の言葉に思わず豪は返答を促した。

「どういう意味だ?」

「兄貴はいつも触れて欲しく無い核心を突いてくる。」

「…」

「上手くいくとか、いかないとかは全然関係ないんだ。

俺たちの関係はね。

そういうカテゴリーに嵌る関係ではないから…。

俺はね、兄貴。

夏流の気持ちが俺にあってもなくても、そういうのはどうでもいいんだ…。

夏流が欲しい。

この感情だけが俺の中にただ、存在するだけなんだ…」

「忍」

「俺の中に、誰かを愛する感情なんて…。

既に放棄した感情だから。

甘い言葉を囁いても、俺の中にその感情は決して存在しない…」

忍の残酷な発言に豪は、思わず問いただした。

「忍、それは余りにも彼女が可哀想だと思わないのか?」

豪の問いに意外だな?と言う表情で忍は答えた。


「何故?

だって、夏流は最初から俺のモノなのに。

既に解っている存在に、愛とか、恋とか、そういう感情は持たなくてもいいのでは?」」

「忍…」

「美樹さんに会うとき、夏流も連れて行ってもいいかな?

きっと、兄貴も美樹さんも夏流の事、気に入ると思うよ。」

「…」

「じゃあ、俺はマンションに行くね。

夏流が俺を待っているから。

明日の夕方には帰宅するから、指定場所は帰宅してから話して貰っていいかな?」

「あ、ああ…」

踵を返して玄関に出ようとする忍を、豪はただ呆然と見るめるしか出来なかった。

頬に一雫の涙が伝った。

(忍、俺はどうしたらお前を救えるんだ…?)

忍の心の闇に直に触れた豪の心に、いつまでも悲しみが消える事がなかった。






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